現代の生きた化石と言われるシーラカンスに自身の存在をダブらせ、
憧憬の念すら思わせる桜井君の詞。
彼の苦悩はもはやここまで進んでいたのである。
彼は「自分は生きている価値が無い人間なんじゃないか」、
「生きている事自体が罪なんじゃないか」とまで考えていたと
当時の事を語っている。そうした想いが、
本作のどうしようもない「救い」の無さへと反映されているのだろう。
そこで見られるものは只、痛烈な社会批判、「別れ」の匂いが
するばかりの恋愛、そして「死」と「破滅」への願望…
その結果見出される答えは決して「希望」では無い。
ただ迷ったまま、ただ純粋に「死」を想う事に終始する形で
(前記の『深海』の詞を参照の事)本作はその幕を閉じてしまうのだ。
そう、答えは出ていないのである。それは当時の桜井君自身が
自身の悩みに答えを出せないでいたのだから至極当然の事だろう。
そしてこの時点で出した精一杯の想いが「死を想う」事だった
のであろう。
結果として、本作がそれに美しさすら感じさせる程の出来栄えを
誇る事となったのは何とも皮肉な事である。
−ではそれ程の生生しさを持つ本作に私達は
どう応えればいいのだろうか?
それはどんな立場の者でもそれぞれ悩みを抱えている事を認識する事
ではなかろうか。自身の夢をかなえ、その「トップ」に立ってですら、
ここまで悩んでしまうという事を認識し、自分だけが悩んでいるのでは
決してないという事を感じる事。本作に「希望」は見出せなくても、
そこから私達がそれを見出す事は不可能ではないのである。
そうした役割こそがこの作品の持つ唯一の「希望」ではないだろうか。