桜井君の歌う詩の内容が当時とガラリと変わってきているのは
皆さんも御気付きの通りだろう。
私は『シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜』辺りから如実にその傾向が
表れてきたと踏んでいる。カップリングの『フラジャイル』は
これまでとは一線を画すラフで衝撃的な作品であったし、
遡れば『Atomic Heart』の頃にはすでに、
「『Cross Road』と『innocent world』というポップな曲が
含まれているから、他は結構好きに作る事ができた」と話していた事が
思い浮かばれる。
確かに『Atomic〜』には現在のミスチルを匂わせる作品が幾つか
収録されている。それを思えば次作にはもっとその傾向を強めた作品が
発表されてもおかしくはなかったのだが、相変らず売れ続ける
シングル曲のポップな面ばかりに目を奪われていて考えが及ばなかった。
そういった意味でも『Atomic〜』は内面的な世界と
ポップで外向的な世界とがギリギリのラインで共存する事ができた
奇跡的な作品と言える。当時の大ヒットも頷ける所だろう。
しかし、桜井君の想いはもはや、そうしたポジションに留まり続ける事が
出来なくなっていた。
当時の事を彼はこう語っている−「ひたすらトップを目指して、
しゃにむに頑張ってきたけど、いざ辿り着いてみると
そこには何もなかった。」これである。
「トップに立った」という表現に語弊があるかもしれないが、
『Tomorrow never knows』や『名もなき詩』を発表していた頃の
彼らは間違いなく「トップ」と呼ばれてもいいフィールドに
存在するミュージシャンの中の「一組」であった事に
間違いはないだろう。言葉の一つ一つに目くじらをたてず
広義な解釈で汲んで欲しい所である。
当時あれだけ絶頂期にあった彼をしてこう言わせるのだから、
そこにあった現実は私達にはとても理解の及ぶものではないだろう。
その辺りの考察はまた別の機会に譲る事としたい。
−話を戻す。そうして少しづつ所謂「売れセン」曲から逸脱を始めた
ミスチルの楽曲だが、それは当時の楽曲には多分に含まれていた、
プロデューサーである小林武史氏の考えやフレーズが、
彼らが確たる地位を持つ事が出来た事で、桜井君一人の手に
委ねられる部分が多くなった事が大きい。
それに加えて「売らなければいけない」という
半ば脅迫的な制約から逃れた(逃れたかった?)、
自由な桜井君の世界が、そして同時に彼の苦悩が表出を始めた事が
その後の彼らの方向を決定付けた最大の要因であろう。
そうして前作『Atomic〜』から約2年、その間に発表された
数々のシングル曲を殆ど「含まない」衝撃の新作が
私達の元に届けられる事になる。
−そして『深海』へ。