『mirror』、軽やかなメロディーに乗って届けられる 本作についてですが、多くの方がこれを純然たるラヴ・ソングだと 認識されている事だと思います。 けど、それって本当にそうなんでしょうか?
アルバム『深海』が、こういったある種「臭い」とも取れる、
メロメロな趣のラヴ・ソングを収録するのに似つかわしくない
コンセプトを内に秘めた作品だという事は、依然から記している
通りです。では何故本作はその「匂い」を持った上で、
なお堂々と『深海』に収録されているのでしょうか。
そこで私はこう思いました。もしかするとこの曲には
表面的なモノ以外に、まだ何か別のメッセージが隠されているのかも
しれないって。冒頭からの「如何にも」的曲調、極めつけに
今や恥ずかしくて誰も使用できない「LOVE LOVE〜」の連呼。
(これは「セピア色」のような単語を用いるのと同じ感覚ですね。
けど、たまに今でも使っちゃってる作詞家もいますけど。
そうそう、付記しておきますがドリカムの
「LOVE LOVE LOVE」は、同じ連呼でも言葉の持つ意味が
まるで違いますからね。同義では無い事に注意して下さい)
こんな言葉使い、わざとでなくて何故今更(過去の楽曲から、
こうした事は先刻承知だと思われる)桜井君が用いる必要が
あるんでしょう?
こんな疑問を持って詞を追っていくと一つのポイントに
ぶつかるわけなんです。
「−夢にかかる虹の橋 希望の光の矢 愛を包むオーロラのカーテン その全てが嘘っぱちに見えて自分を見失うような時は−」
ここです。最後のヤマとなるここでまたもや「臭い」言葉の オンパレード。けれども話はここから一変しています。 わかりますか?その全てが嘘っぱちに見えて、といってるんですよ。 つまり今までの甘い詞の内容も、全てここで嘘っぱちに見える 対象として事前に登場させてきた布石、とはとれませんか? そして曲はこう続くわけです。
「−あなたが誰で何のために生きているか その謎が早く解けるように 鏡となり側に立ち あなたを写しつづけよう−」
ここで私はようやくピンときました。これってもしかして、
上記されてきたような甘い考えを持ってやまない私達に対する
批判的なメッセージを裏に忍ばせた、痛烈なアイロニー
なんじゃないかって。もしそう考えると愛する人に対し、
厳しくも恐ろしい現実をつきつける鏡の役割を担った
曲中の主人公(あるいは私達に対する桜井君?)の写し出す
真実とは、一体何なのでしょうか?
考えるだけで恐ろしいですけれど、もしかするとその答えが
『深海』の中には織り込まれているのかもしれません。
そう考えると『深海』に対する本作の役割も
見えてくるのではないでしょうか。
こんなくだらない見解が間違っていれば、
そして何もかも知らなければ「幸せ」
−そう願う今日このごろです。