私的Mr.Children論(6) 〜mirror−写される現実−

『mirror』、軽やかなメロディーに乗って届けられる 本作についてですが、多くの方がこれを純然たるラヴ・ソングだと 認識されている事だと思います。 けど、それって本当にそうなんでしょうか?

アルバム『深海』が、こういったある種「臭い」とも取れる、 メロメロな趣のラヴ・ソングを収録するのに似つかわしくない コンセプトを内に秘めた作品だという事は、依然から記している 通りです。では何故本作はその「匂い」を持った上で、 なお堂々と『深海』に収録されているのでしょうか。
そこで私はこう思いました。もしかするとこの曲には 表面的なモノ以外に、まだ何か別のメッセージが隠されているのかも しれないって。冒頭からの「如何にも」的曲調、極めつけに 今や恥ずかしくて誰も使用できない「LOVE LOVE〜」の連呼。 (これは「セピア色」のような単語を用いるのと同じ感覚ですね。 けど、たまに今でも使っちゃってる作詞家もいますけど。 そうそう、付記しておきますがドリカムの 「LOVE LOVE LOVE」は、同じ連呼でも言葉の持つ意味が まるで違いますからね。同義では無い事に注意して下さい)
こんな言葉使い、わざとでなくて何故今更(過去の楽曲から、 こうした事は先刻承知だと思われる)桜井君が用いる必要が あるんでしょう?
こんな疑問を持って詞を追っていくと一つのポイントに ぶつかるわけなんです。

「−夢にかかる虹の橋 希望の光の矢 愛を包むオーロラのカーテン その全てが嘘っぱちに見えて自分を見失うような時は−」

ここです。最後のヤマとなるここでまたもや「臭い」言葉の オンパレード。けれども話はここから一変しています。 わかりますか?その全てが嘘っぱちに見えて、といってるんですよ。 つまり今までの甘い詞の内容も、全てここで嘘っぱちに見える 対象として事前に登場させてきた布石、とはとれませんか? そして曲はこう続くわけです。

「−あなたが誰で何のために生きているか その謎が早く解けるように 鏡となり側に立ち あなたを写しつづけよう−」

ここで私はようやくピンときました。これってもしかして、 上記されてきたような甘い考えを持ってやまない私達に対する 批判的なメッセージを裏に忍ばせた、痛烈なアイロニー なんじゃないかって。もしそう考えると愛する人に対し、 厳しくも恐ろしい現実をつきつける鏡の役割を担った 曲中の主人公(あるいは私達に対する桜井君?)の写し出す 真実とは、一体何なのでしょうか?
考えるだけで恐ろしいですけれど、もしかするとその答えが 『深海』の中には織り込まれているのかもしれません。 そう考えると『深海』に対する本作の役割も 見えてくるのではないでしょうか。

こんなくだらない見解が間違っていれば、 そして何もかも知らなければ「幸せ」
−そう願う今日このごろです。







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